「銀行がお金を無から生み出している」とはどういうことか。1

 

かつて竹中元大臣が「セーの法則があるのだから、もっと市場を信頼して… 」と国会で答弁したそうだけれど、セーの法則があるとなぜ市場経済はうまくいくのか。

 

 こんな風に説明される。

 

たとえば10億円の商品が市場にもたらされたときには、収入も10億円発生する。これはすべての商品についていえる。商品をすべて買い切れるだけの収入が発生するのだから過剰生産は起こりえない。いま欲しいものがないという人は収入をお金のままで持っているよりは誰かに貸して利子を取る方がよいはずだ。利子を払ってお金を借りた人はその金を何かに投資するだろう。したがって収入は必ずすべて支出される。

 

 全世界の商品の総額と収入の総額は等しい。収入がすべて支出されればすべての商品が売り切れる。これがセーの法則の意味だと私は理解した。すると、銀行がお金を無から生み出すと、商品がもたらされずに収入だけが発生することになる。これはニセガネ作りではないのか。

 

 私の理解がおかしいのだろうか。

 

 

 

「銀行がお金を無から生み出している」とはどういうことか。2

 

 ちなみに森嶋通夫は「ケインズの経済学」序論でこう書いている。

 

「経済学には二つの根本的に対立する考え方がある。第一は経済全体としては過剰生産は不可能であるということ、すなわち総生産額が決められると、それらに等しいだけの総需要が常に作り出されるという見解であり、第二は総産出額が総需要を決めるのではなく、その逆、すなわち総需要が総生産額を決めるという見解である。第一の見解はセイの法則と呼ばれ、第二のそれは「有効需要の原理」といわれる。19世紀前半まで経済学界に君臨していたリカードセイの法則を承認していたから、それはケインズによって古典派の公準と呼ばれた。このような公準一般均衡が成立するために必要であるから、ワルラスはじめ一般均衡論者はセイの法則を認めたが、19世紀中期以後にはセイの法則を否認する学者(例えばマルクスおよび彼の追随者)が現われ、このような反対者の思想は最後にケインズの「有効需要の原理」として結実した。ケインズの『一般理論』が出版されるまでの約百年間の経済学史の主題はセイ法則の世界(リカード経済学)を転覆させて、反セイ法則の体制(ケインズ経済学)を構築することにあったと考えうる… 」

 

  ちなみにマルクスは「資本論」で、ジャン・バチスト・セーの愚論、と書いているけれど、なぜセーの法則が成り立たないかというと、資本主義は「売り」は強制されるが「買い」は強制されない、だから資本主義の世界はつねに「売り」に対して「買い」が不足する世界なのだ、と。

 

 「商品の総額=収入の総額=支出の総額」がセーの法則の前提だという私の理解は正しいのではないか。

 

 とするならば、銀行がお金を無から生み出して誰かに貸し出し、そのお金が購買力として市場に登場すると、市場では商品の総額よりも需要の方が大きくなってしまう。これでいいのだろうか。

 

 

 

「銀行がお金を無から生み出している」とはどういうことか。3

 

総産出が百俵の米、1俵1ドルだとして総収入が100ドルの世界があったとして、誰かが10ドルの偽金を作って米を買うと、1ドルでは約0.91俵の米しか買えなくなる。ニセガネ使いがすべての人から計9.1俵の米をくすねたのだ。

 

国家がお金を発行してその金で商品を買うと、その分はすべての国民に税金をかけたのと同じことになる。そのお金で公共事業を、たとえば鉄道建設をすればその鉄道は「国鉄」に、国民の物になる。(もし使われないで眠っている貯蓄があるなら、その貯蓄で国債を買ってもらって公共事業をすれば雇用が維持できる。)

 

 銀行がお金を発行すると、銀行という私企業が全国民に税金をかけたのと同じことになる。そのお金を借りた人が商品を買えばそれは私的な財産になってしまう。そのおかねで事業をすると、たとえば10億ドルを借りて商品を作り、11億ドルで売り、1億ドルの利潤を出したとすると、その1億ドルは増えたのではない、国民が11億ドル出したからこそ商品が11億ドルで売れたのだから、1億ドルの利潤は国民から企業に移動しただけだ。その1億円から返済時に銀行に利子を支払うと、その利子と預金者に支払う金利の差は銀行が国民から奪ったことになる。

 

 

 

  「銀行がお金を無から生み出している」とはどういうことか。4

 

 ガルブレイスが「マネー」の中でアメリカの開拓時代の金融事情について書いていた。

 

 西部の小さな地方銀行が無からマネーを生み出して開拓民に貸し付け、開拓民がその金で農機具を買い、無料で手に入れた土地で作物を作るとその作物(商品)は無から生み出されたことになる。全体としての商品が増えたのだ。

 

 普通はこうはいかない。商品を生み出すためには資源(鉄、砂、木材等)を消費しなければならないのだから、その商品は資源が移動、移行しただけだ。無から生み出されてその分増えたというわけではないし、それを売って得た収入(お金)も買い手から売り手に移動しただけだ。収入全体が増えたわけではない。

 資源が火星からでも降ってきてそこから商品が生み出されたなら、商品が無から生み出された分、マネーを無から生み出しても意味があるだろうけれども。

 

 最近 MMTと言うのが話題になっているらしいけれど、近代経済学において、マネー、お金、貨幣、はかなり混乱して使われている。

 

月給10万円の世界で、企業が銀行から10万円を引き出して労働者を雇い、労働者は一ヶ月で10万円の購入をし、売り手はそれを銀行に持って行き… とやっていくと、この世界では10万円の貨幣があれば経済をずっと回転させることができる。

年俸制の世界では120万円の貨幣を回転させることになるが、12倍の貨幣が世界を12倍豊かにしたり、12倍のインフレを生んだりするわけではない。貨幣の量は世界が習慣的に必要とするだけあればよいのであって、経済の大きさとは関係がない。

「貨幣」と言わず「収入」・「購買力」という言葉を使えばこの混乱はなくなる。

 

「商品の総額」イコール「収入の総額」が経済の基本だとすれば、銀行はお金無から生みだしたり減らしたりしてそのぶん購買力を増減すると世界をデフレにもインフレにもすることができることになる。これは銀行による計画経済だということではないか。私的利潤を目的とする私企業にそんな権力を与えてよいのだろうか。

 

 

「銀行がお金を無から生み出している」とはどういうことか。5

 

 

一万円で商品が売れたとすると、商品の額は一万円、発生した収入も一万円。商品の金額と収入の金額は等しい。これはすべての商品についていえることだから、全世界の商品の総額と収入の総額は等しい。これは当たり前だ。だから世界の収入のすべてが支出されると世界のすべての商品が売り切れる。

 

三面等価」という考え方があって、一万円の商品が売れたときは、一万円の支出がされたからであり、それによって一万円の収入が発生する。だから全世界の商品の総額と支出の総額と収入の総額は等しい。

 しかしこれは「だから商品のすべては売りきれることになっている」わけではない。このときに発生した一万円の収入が必ず一万円の支出になる、かどうかはわからない。

 

  日本で一年で生産された商品の総額は約500兆円。国民の総収入も500兆円。商品の総額と収入の総額は常に等しい。この二つは違うことが出来ない。だからすべての収入が支出されればすべての商品が売り切れる。

 

 ここで、三面等価の原則(統計上の原則)を、三面等価の法則だと思っている人がいるけれど、

 

国民の総生産=国民の総収入=国民の総支出

 

なのだが、これは、500兆円の商品がすべて必ず売り切れるといっているのではなくて、この場合490兆円しか注文がなくて10兆円の商品が売れ残ったとすると、その10兆円の在庫品は企業が支出して買ったことにして総支出の中に含める、という会計学上の操作、トリック(by石川秀樹先生)によって成立しているのだそうだ。

       石川秀樹 フリーラーニング

                   https://www.youtube.com/watch?v=2MvGz3paIkw

何年か前ビデオニュースドットコムで 神保さんが野口悠紀雄に、貯蓄されたらその分売れ残るのではないか、と問いかけると、野口悠紀雄は、三面等価の法則というのがあって売りきれることになっている、と答えていた記憶がある。